LOGIN翌朝、目が覚めるとソファの上に毛布が落ちていた。
悠斗はベッドに戻ったらしい。
私はぼんやり天井を見上げたまま、小さく息を吐く。
身体が重い。
昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが抜けていなかった。
時計を見る。
午前六時半。
あと三十分で悠斗を起こさないといけない。
私はゆっくり起き上がり、キッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける。
昨夜の唐揚げが、そのまま残っていた。
やっぱり食べなかったんだ。
少しだけ胸がちくりとする。
私は視線を逸らし、味噌汁を温め始めた。
お米をよそう。
卵を焼く。
コーヒーを淹れる。
手は勝手に動く。
五年も一緒にいると、朝の支度なんてほとんど習慣だ。
悠斗は朝が弱い。
だから起きる時間から逆算して、コーヒーのタイミングを合わせる。
熱すぎると飲めないから、少し冷ましておく。
私はそんなことを考えながら、食卓に朝食を並べた。
その時、背後から腕が伸びてくる。
「……んー」
寝起きの低い声。
悠斗が私の肩に額を押しつけていた。
「おはよ」
「おはよう。起きたんだ」
「コーヒーの匂いした」
少し掠れた声に、私は思わず笑ってしまう。
こういう瞬間だけ切り取れば、ちゃんと幸せだった。
悠斗は私の肩に顎を乗せたまま、ぼんやりテーブルを見る。
「朝からちゃんとしてんなぁ」
「普通だよ」
「いや、普通じゃないって」
そう言いながら椅子に座る。
「俺、一人だったら朝とか絶対食わないもん」
「食べた方がいいよ、身体に悪いし」
「はいはい」
適当な返事。
でも私はそれだけで少し安心する。
ちゃんと食べてる。
ちゃんと会社行く。
それだけでいいと思ってしまう。
悠斗は味噌汁を飲みながら、スマホを見ていた。
私は向かい側で卵焼きをつつく。
会話はあまりない。
でも別に、気まずいわけじゃない。
長く付き合えばこんなものだ。
たぶん。
「あ」
悠斗が急に顔を上げた。
「今日さ、会社のやつ来るかも」
「会社の人?」
「うん。後輩」
「へえ」
「資料取りに来るだけだけど」
「そっか」
私は何気なく頷き、空いた皿を下げる。
「じゃあ帰りに何か買っとこうか?」
「え?」
「お菓子とか。飲み物とか」
そう言うと、悠斗は少しだけ苦笑した。
「真琴さ」
「ん?」
「ほんとそういうとこだよな」
私は首を傾げる。
悠斗はコーヒーを飲みながら、呆れたみたいに笑った。
「気ぃ回しすぎ」
「そうかな」
「そう。なんかもう……母親みたい」
その言葉に、私は一瞬だけ動きを止めた。
昨日も思い出した言葉。
また同じことを言われるとは思わなかった。
でも悠斗は気づいていない。
悪気なんて、本当にないんだと思う。
「ごめん、変な意味じゃなくて」
「ううん」
私は笑う。
ちゃんと、いつも通りに。
「世話焼きってことだよね」
「そうそう」
悠斗は安心したみたいに頷いた。
私はそのまま皿を洗い始める。
水の音がやけに大きく聞こえた。
母親みたい。
恋人じゃなくて。
女じゃなくて。
母親。
スポンジを握る手に、少しだけ力が入る。
でも、怒るほどのことじゃない。
悠斗は褒めるつもりで言ったんだろうし。
実際、私は世話を焼くのが嫌いじゃない。
……嫌いじゃない、はずだ。
「真琴?」
振り返ると、悠斗がネクタイを片手に困った顔をしていた。
「結び目変になった」
「ああ、貸して」
私は手を拭き、悠斗の前に立つ。
ネクタイを結び直す。
慣れた作業だった。
近づくと、柔軟剤と整髪料の匂いがする。
「はい、できた」
「助かる」
悠斗は笑う。
「真琴いないとマジで生きてけないわ」
その言葉に、胸が少しだけ温かくなる。
……ああ。
私はこういうので、嬉しくなってしまうんだ。
必要とされると安心する。
役に立てると、自分に価値がある気がする。
でも同時に。
どこか苦しかった。
悠斗は私の頬を軽く撫でる。
「じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
玄関のドアが閉まる。
静かになる部屋。
私は一人でキッチンに戻った。
シンクには、悠斗の使ったコップ。
飲み残しのコーヒーは少し冷めている。
私はそれを流しながら、ふと思った。
もし私が、こういうことを全部やめたら。
悠斗は困るんだろうか。
それとも案外、平気なんだろうか。
分からない。
でもなぜか、その答えを考えるのが少し怖かった。
土曜日の午後一時半。 私は駅のホームに立ち、スマホで時間を確認した。 朝倉さんとの待ち合わせは午後二時。ここから二駅だから、少し早めに着くことになりそうだった。 今日は朝から落ち着かなかった。 いつも通り朝食を食べ、洗濯物を干し、部屋の掃除も済ませた。それなのに、出かける支度を始める頃には、何度も時計を確認してしまった。 服は、淡いブルーのブラウスに紺色のスカートを選んだ。 先日、一緒に喫茶店へ行った時とは違う組み合わせだ。鏡の前で何度か確認し、最後に小さなイヤリングをつけた。 別に、特別なおしゃれをしたわけではない。 でも、朝倉さんに会うのだから、少しはきれいにしていきたい。 そう思って服を選ぶ時間が、楽しかった。 電車がホームに滑り込んでくる。 私はバッグを持ち直し、車内へ乗り込んだ。◇◇◇◇ 待ち合わせの駅に着いたのは、午後一時四十五分だった。 改札を出ると、休日らしく何組かの人が待ち合わせをしていた。家族連れや学生らしい二人組、スマホを見ながら誰かを待つ人。 私は少し離れた場所に立ち、朝倉さんへメッセージを送ろうか迷った。 まだ十五分ある。 急かすようになるのも申し訳ないし、約束の時間まで待っていればいい。 そう思ってスマホをバッグに戻した時だった。「藤崎さん」 聞き慣れた声に振り向く。 朝倉さんが、改札の向こうから歩いてきた。 白いシャツに薄手のネイビーのジャケット。普段より少しきちんとした服装で、片手には小さなバッグを持っている。 いつものカメラバッグではなかった。「こんにちは。早かったんですね」「こんにちは。少し早めに出たつもりだったんですが、藤崎さんの方が先でしたね」 朝倉さんは笑いながら、腕時計を見た。「まだ十五分ありますし、慌てなくてもよかったのに」「私も少し早く着いてしまったんです。電車の時間がち
洗濯物を畳み終える頃には、部屋の時計は午後十時に近づいていた。 私はクローゼットへ衣類をしまい、明日の仕事の準備を済ませた。 いつもと変わらない月曜日の夜だった。 けれど、今度の土曜日には約束がある。 朝倉さんと、午後二時に待ち合わせる。 そう考えると、自然に頬が緩んだ。 何を着ていこう。 カフェでは何を頼もう。 写真で見た季節のケーキもおいしそうだったけれど、焼き菓子も気になる。 そんなことを考えているうちに、ふと手が止まった。 こんなふうに誰かと会う日を楽しみにするのは、いつ以来だろう。 悠斗と付き合い始めた頃は、私も休日の予定を楽しみにしていた。 どこへ行こうかと話し、服を選び、待ち合わせの時間を何度も確認した。 あの頃は、会えるだけで嬉しかった。 特別な場所へ行かなくてもよかった。仕事帰りに待ち合わせて、駅前の店で夕飯を食べるだけでも楽しかったし、帰り道に少し遠回りをするだけで、もう少し一緒にいられることが嬉しかった。 それがいつの間にか、休日は一緒に生活を回す日になっていた。 買い物へ行き、足りないものを補充し、掃除をして、食事を作る。時々出かけることもあったけれど、私の頭の中には帰宅後の夕飯や翌日の準備がいつも残っていた。 あの時間が全部嫌だったわけではない。 楽しかった日も、嬉しかったことも確かにある。 ただ、いつからだろう。 誰かと過ごす予定を楽しみにするより、その予定をうまく終わらせることを考えるようになったのは。 私は畳み終えたタオルが収まった棚を見つめた。 もう、あの頃のことを一つずつ責めたいわけではない。 悠斗との時間を、全部間違いだったことにしたいわけでもなかった。 私が好きだった気持ちも、二人で笑った時間も本当だったのだと思う。 でも、好きだったからこそ、私は少しずつ無理をするようになっていた。 相手が困らないように。
返事が届いたのは、メッセージを送ってから二十分ほど経った頃だった。 私はちょうど洗濯物を畳んでいて、テーブルの上でスマホが震える音に顔を上げた。 画面には、朝倉さんの名前が表示されている。 自分から送ったのだから返事が来る可能性は分かっていたけれど、実際に名前を目にすると、思っていた以上に緊張した。 私は手に持っていたタオルを畳み終え、洗濯物の山の上に置いてからスマホを取った。 もし、都合が悪かったら。 誘われたこと自体が負担だったら。 そんな考えが頭をよぎる。 断られる可能性があることは、送る前から分かっていた。だからといって、怖くないわけではない。 私は画面を開いた。『こんばんは。こちらこそ、先日はありがとうございました。お誘いいただけて嬉しいです。今度の土曜日なら午後から時間があります。ぜひご一緒させてください』 読み終えた瞬間、肩の力が抜けた。 そして、自然に笑みがこぼれた。 朝倉さんが、私の誘いを受けてくれた。 それだけではなく、誘われて嬉しいと言ってくれている。 私はその一文を、もう一度読み返した。『お誘いいただけて嬉しいです』 丁寧で、朝倉さんらしい言葉だった。 けれど今は、その丁寧さの奥に、彼自身の気持ちがあるように思えた。 先日、喫茶店で話した時もそうだった。 朝倉さんは、私と普通に話してみたいと思っていたと言ってくれた。展示や写真の話だけではなく、何でもない時間を一緒に過ごしたかったのだと。 そして今日、私が誘ったことも喜んでくれている。 私だけが、また会いたいと思っていたわけではない。 そう分かったことが、胸の奥を温かくした。◇◇◇◇ 私はカフェの案内ページをもう一度開き、場所と営業時間を確認した。 土曜日の午後なら、ちょうどいい。 写真で見た雰囲気は素敵だったけれど、実際に行ってみたら想像と違うかもしれない。週
月曜日の昼休み、私はスマホの画面を眺めながら、少しだけ悩んでいた。 表示しているのは、会社から電車で二駅ほど離れた場所にある小さなカフェの紹介ページだった。 古い建物を改装した店らしく、木製の家具と大きな窓が印象的だった。写真には焼き菓子や季節のケーキが並んでいて、休日には軽いランチも出しているらしい。 気になったのは、窓際にある二人掛けの席だった。 朝倉さんと行った喫茶店とは雰囲気が違うけれど、ここなら落ち着いて話せそうだと思った。 先週末、朝倉さんと別れる時に交わした約束。 今度は私から誘ってもいいですか。 朝倉さんは、ぜひ、と答えてくれた。 あの時は自然に言えたのに、いざ本当に誘おうとすると、少し緊張する。 まだ数日しか経っていない。 早すぎるだろうか。 でも、せっかくなら今度の週末に行ってみたい。 私は画面を閉じたり開いたりしながら、何度目か分からないため息をついた。「藤崎さん、何か難しい案件ですか?」 顔を上げると、森下さんが立っていた。「あ、ううん。仕事じゃないの」「そうなんですね。すごく真剣なお顔だったので」 森下さんは隣の椅子に座り、持ってきたお茶をテーブルに置いた。 私は少し迷ってから、スマホの画面を見せた。「このお店、どう思う?」「カフェですか? 素敵ですね。誰かと行くんですか?」「……うん。まだ誘ってないんだけど」 そこまで答えると、森下さんが私の顔を見た。 そして、少しだけ目を見開く。「もしかして、朝倉さんですか?」「どうして分かったの?」「藤崎さん、今ちょっと照れてます」「そんなに分かりやすい?」「はい。でも、いいと思います」 森下さんは笑いながら、スマホの写真へ目を戻した。「ここ、雰囲気もよさそうですし、駅から近いみたいですね。何よ
会計を済ませて喫茶店を出ると、午後の日差しは少し傾き始めていた。 店内ではあまり意識しなかったけれど、外へ出ると空気が少し涼しい。私はバッグの持ち手を直し、朝倉さんと並んで書店の方へ歩き出した。「今日はありがとうございました」 私が言うと、朝倉さんは首を横に振った。「こちらこそ。突然誘ってしまいましたけど、来ていただけてよかったです」「最初は少し驚きました」「そうですよね。書店で偶然お会いしただけでしたから」「でも、嬉しかったです。前から行っていた喫茶店なのに、今日はまた違う楽しさがありました」 そう答えると、朝倉さんは少し照れたように笑った。「そう言っていただけると、誘った甲斐があります」 私たちは信号の手前で足を止めた。 向かいの歩道には買い物帰りらしい人がいて、近くの花屋では店員さんが店先のバケツを片づけ始めている。 いつもと変わらない休日の午後。 その景色の中で、私はさっきまでの会話を思い返していた。 朝倉さんが、私と普通に話してみたかったと言ってくれたこと。 自分から誘ったのだから、気にしなくていいと言ってくれたこと。 どちらも、私には嬉しかった。◇「また、あのお店に行きたいです」 信号が青に変わって歩き出した時、私は自然にそう言っていた。「そうですね。また機会があれば」 朝倉さんは穏やかに頷いた。 私はその返事を聞きながら、少しだけ考えた。 また機会があれば。 便利な言葉だと思う。 次の予定を決めなくてもいいし、相手に負担をかけることもない。社交辞令として使うこともできるし、本当に次を楽しみにしている時にも使える。 以前の私なら、そこで会話を終わらせていただろう。 相手が次の予定を提案してくれるまで待つ。自分から誘って断られたらどうしようと考え、曖昧な言葉の中に気持ちをしまっていたと思う。 でも、今日は少し
喫茶店の壁に掛けられた時計は、午後三時を少し回っていた。 窓際の席には柔らかな日差しが残っていて、向かいに座る朝倉さんの横顔を明るく照らしている。プリンの皿は空になり、コーヒーも残り少なくなっていた。 そろそろ帰る時間だろうか。 そう考えてから、私は自分が少し名残惜しく感じていることに気づいた。 今日は小冊子を買うために書店へ来た。朝倉さんに会えるかもしれないとは思っていたけれど、こうして一緒に喫茶店に入ることになるとは予想していなかった。 だから、この時間が終わるのを惜しいと思うことにも、少し戸惑っている。「藤崎さん?」 朝倉さんに声をかけられ、私は顔を上げた。「何か考え事ですか?」「あ、いえ。そろそろ帰る時間かなと思って」 そう答えると、朝倉さんは壁の時計を見た。「そうですね。もう結構話していましたね」「はい。思っていたより時間が経っていて、少し驚きました」「僕もです。今日は写真の話をほとんどしていないのに」 朝倉さんが笑うので、私もつられて笑った。「プリンの話はしましたけど」「それは重要な話でしたね」「はい。かなり」 以前は、相手と過ごす時間を楽しくしようとして、会話を途切れさせないことばかり考えていた。けれど今日は、話題を探すために無理をした覚えがない。 朝倉さんも自分の話をしてくれたし、私も休日の過ごし方を話した。特別な出来事があったわけではないのに、もう少し一緒にいたいと思っている。「藤崎さんは、休みの日に一人で出かけることが増えたんですよね」 朝倉さんが、コーヒーカップをソーサーへ戻しながら言った。「はい。前はあまり出かけなかったんですけど、最近は気になる場所があったら行ってみようと思うようになりました」「工房もそうでしたね」「最初はかなり緊張しました。駅から歩いている間、本当に道が合っているのか何度も確認してしまって」「僕も初めて行く場所では同じこと
土曜日だった。 本当なら少し遅くまで寝ていたい日なのに、私はいつもの時間に目が覚めた。 隣を見る。 ベッドは空だった。 私はぼんやり身体を起こし、リビングへ向かう。 悠斗はソファでスマホを見ていた。 「あ、おはよ」 「おはよう」 カーテンの隙間から朝の光が差し
結局その日、私は一人でラーメンを食べて帰った。 本当はもっと洒落たものでも食べようと思っていた。 せっかく外食する気分だったし、少しくらい贅沢してもいいかなって。 でも店を探す気力がなくなってしまった。 駅前のラーメン屋に入り、カウンター席へ座る。「ご注文どうされますか?」「あ、醤油ラーメンで」 店員に答えながら、自分でも少し驚く。 私は本当は塩派だ。 でも悠斗が醤油好きだから、気づけば家でも醤油ばかり作るようになっていた。 私は箸を持ったまま、ぼんやり湯気を見つめる。 好きなもの。 最近、自分の『好き』がよく分からない。 ラーメンを食べ終えて店を出ると、夜風が少
翌日の朝、私は少し寝坊した。 目を覚ますと時計は七時十分を指している。「……やば」 慌てて起き上がる。 いつもならもう朝食を作り始めている時間だった。 私は急いでキッチンへ向かう。 でもそこには思っていた光景がなかった。 悠斗が一人でコーヒーを淹れていた。
写真を閉じたあとも胸のざわつきは消えなかった。 私はソファに座ったまま、ぼんやりスマホを握りしめる。 居酒屋の明るい照明。 楽しそうな笑い声が聞こえてきそうな写真。 その端に映っていた悠斗。 私の前で見せる顔とは少し違って見えた。 なんでだろう。 笑っていただけなのに。