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第3話 母親みたい

Autor: 八月 猫
last update Fecha de publicación: 2026-06-02 11:07:47

 翌朝、目が覚めるとソファの上に毛布が落ちていた。

 悠斗はベッドに戻ったらしい。

 私はぼんやり天井を見上げたまま、小さく息を吐く。

 身体が重い。

 昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが抜けていなかった。

 時計を見る。

 午前六時半。

 あと三十分で悠斗を起こさないといけない。

 私はゆっくり起き上がり、キッチンへ向かった。

 冷蔵庫を開ける。

 昨夜の唐揚げが、そのまま残っていた。

 やっぱり食べなかったんだ。

 少しだけ胸がちくりとする。

 私は視線を逸らし、味噌汁を温め始めた。

 お米をよそう。

 卵を焼く。

 コーヒーを淹れる。

 手は勝手に動く。

 五年も一緒にいると、朝の支度なんてほとんど習慣だ。

 悠斗は朝が弱い。

 だから起きる時間から逆算して、コーヒーのタイミングを合わせる。

 熱すぎると飲めないから、少し冷ましておく。

 私はそんなことを考えながら、食卓に朝食を並べた。

 その時、背後から腕が伸びてくる。

「……んー」

 寝起きの低い声。

 悠斗が私の肩に額を押しつけていた。

「おはよ」

「おはよう。起きたんだ」

「コーヒーの匂いした」

 少し掠れた声に、私は思わず笑ってしまう。

 こういう瞬間だけ切り取れば、ちゃんと幸せだった。

 悠斗は私の肩に顎を乗せたまま、ぼんやりテーブルを見る。

「朝からちゃんとしてんなぁ」

「普通だよ」

「いや、普通じゃないって」

 そう言いながら椅子に座る。

「俺、一人だったら朝とか絶対食わないもん」

「食べた方がいいよ、身体に悪いし」

「はいはい」

 適当な返事。

 でも私はそれだけで少し安心する。

 ちゃんと食べてる。

 ちゃんと会社行く。

 それだけでいいと思ってしまう。

 悠斗は味噌汁を飲みながら、スマホを見ていた。

 私は向かい側で卵焼きをつつく。

 会話はあまりない。

 でも別に、気まずいわけじゃない。

 長く付き合えばこんなものだ。

 たぶん。

「あ」

 悠斗が急に顔を上げた。

「今日さ、会社のやつ来るかも」

「会社の人?」

「うん。後輩」

「へえ」

「資料取りに来るだけだけど」

「そっか」

 私は何気なく頷き、空いた皿を下げる。

「じゃあ帰りに何か買っとこうか?」

「え?」

「お菓子とか。飲み物とか」

 そう言うと、悠斗は少しだけ苦笑した。

「真琴さ」

「ん?」

「ほんとそういうとこだよな」

 私は首を傾げる。

 悠斗はコーヒーを飲みながら、呆れたみたいに笑った。

「気ぃ回しすぎ」

「そうかな」

「そう。なんかもう……母親みたい」

 その言葉に、私は一瞬だけ動きを止めた。

 昨日も思い出した言葉。

 また同じことを言われるとは思わなかった。

 でも悠斗は気づいていない。

 悪気なんて、本当にないんだと思う。

「ごめん、変な意味じゃなくて」

「ううん」

 私は笑う。

 ちゃんと、いつも通りに。

「世話焼きってことだよね」

「そうそう」

 悠斗は安心したみたいに頷いた。

 私はそのまま皿を洗い始める。

 水の音がやけに大きく聞こえた。

 母親みたい。

 恋人じゃなくて。

 女じゃなくて。

 母親。

 スポンジを握る手に、少しだけ力が入る。

 でも、怒るほどのことじゃない。

 悠斗は褒めるつもりで言ったんだろうし。

 実際、私は世話を焼くのが嫌いじゃない。

 ……嫌いじゃない、はずだ。

「真琴?」

 振り返ると、悠斗がネクタイを片手に困った顔をしていた。

「結び目変になった」

「ああ、貸して」

 私は手を拭き、悠斗の前に立つ。

 ネクタイを結び直す。

 慣れた作業だった。

 近づくと、柔軟剤と整髪料の匂いがする。

「はい、できた」

「助かる」

 悠斗は笑う。

「真琴いないとマジで生きてけないわ」

 その言葉に、胸が少しだけ温かくなる。

 ……ああ。

 私はこういうので、嬉しくなってしまうんだ。

 必要とされると安心する。

 役に立てると、自分に価値がある気がする。

 でも同時に。

 どこか苦しかった。

 悠斗は私の頬を軽く撫でる。

「じゃ、行ってくる」

「いってらっしゃい」

 玄関のドアが閉まる。

 静かになる部屋。

 私は一人でキッチンに戻った。

 シンクには、悠斗の使ったコップ。

 飲み残しのコーヒーは少し冷めている。

 私はそれを流しながら、ふと思った。

 もし私が、こういうことを全部やめたら。

 悠斗は困るんだろうか。

 それとも案外、平気なんだろうか。

 分からない。

 でもなぜか、その答えを考えるのが少し怖かった。

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  • 『尽くしすぎたのでやめました。今さら後悔しても遅いです』〜帰らない人を待つのは、もうやめます〜   第7話 私が知らない時間

     写真を閉じたあとも胸のざわつきは消えなかった。 私はソファに座ったまま、ぼんやりスマホを握りしめる。 居酒屋の明るい照明。 楽しそうな笑い声が聞こえてきそうな写真。 その端に映っていた悠斗。 私の前で見せる顔とは少し違って見えた。 なんでだろう。 笑っていただけなのに。

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